黄泉比良坂 亡くなった妻、イザナミを追いかけ黄泉の国に行ったイザナギは、妻との約束を破り見てはいけない妻の姿を見てしまいました。 腹を立てたイザナミは、イザナギを追いかけます。黄泉比良坂は、その逃げ道と伝えられています。
諸手船
諸手船の長さは6.6m、幅の最も広いところ1.12m、深さは0.51mである。 一本の丸太をくり抜いて作ったと言われていますが、後代になって重木に調(板材)を合わせて作られていました。 用材はもともとクスの木であったよう
諸手船神事
国譲りのとき2隻の諸手船に使いの神が乗り、美保関に住む事代主命のもとに意見を聞きに来る様を再現したものです。 使神に扮して諸手船に乗船する18人の舵子は、乗船資格のある約70名の当屋を終えた者(当屋を一年間務めた者)の中
青柴垣(あおしばがき)神事
美保神社の祭神、事代主命(ことしろぬしのみこと/恵比須さま)が大国主命から国譲りの相談をうけ、譲ることに決定した後、自ら海中に青い柴垣を作ってお隠れになった という故事に因みます。 一年神主である当屋(とうや)を地元より
事代主神(ことしろぬしのかみ)
天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大国主神の第一の御子神です。 天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって、大国主神にこの国を天つ神に献れとお伝えになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で魚
美保関神社
青柴垣神事に国譲り神話を伝える事代主命の社 翼を広げているかのように見える本殿「美保造り」「比翼大社造り」と呼ばれています。島根半島の東端の美保関。今では静かな漁師町といった感じですが、 古代より此処は、漁業や交易が行わ
雨壺(あめつぼ)
神社の西を流れる素鵝川に沿って、約一粁下流の田の中に大きな岩があり、その中に径二尺(七十センチ)余の芝生があります。 これを犯せば須佐大神の怒りにふれて洪水になると昔から言い伝えられています。現に之を犯して翌日暴風雨とな
星滑(ほしなめ)
須佐の中山の嶺のあたりに岩石の露出して谷の様になっている所に白い斑点があります。 (神社の西方) それが豊年なれば多く、凶年なれば少ない。と言い伝えられています。
影無桜
昔、隠岐国で耕田が稔らず不作が続いた。知々井の某に夢想があり「須佐大宮の境内に大きい桜が繁茂して、それが隠岐へ影をさす為に耕作が出来ぬ。 早く出雲へ渡って須佐の国造に頼んでその桜を切ればよい」とのことであった。 そこでそ
落ち葉の槙
槇(柏)の葉に松葉で通した孔がある槇の喬木。そのかみ、稲田姫が、於呂志古山(産子山誕生山)でお産をなさった時、産具を柏葉で包み松の葉で綴じ流瀬川にお流しになり、 それが現在の位置にとどまり川畔に繁茂して今日に至るという。
神馬
神社に馬を奉献すると、この馬は後に、必ず白馬に変り異常をよく予知したということです。今は伝説です。
相生の松
男松女松が一本の大木となっています。今は枯れ、かわりを植えています。
塩井
須佐の七不思議のひとつ潮の干満により井戸の水位も上下します。 此処のお水は塩水です。
須佐之男命
御魂をお祀りする御本殿は二間四方の典型的な大社造りです。玉砂利を踏み歩き御本殿に一歩ずつ近づく度に、強い御神気と威厳が迫ってくるようです。 本殿裏手には、幹周り6㍍、樹高24㍍、樹齢約千三百年という杉の巨木が根を張り、
須佐神社
出雲風土記にも記されたスサノオ命が鎮まる御神気満ちるお社です。 諸国を旅した須佐之男命が、最後にたどり着いたのがここ須佐の郷(現佐田町)です。出雲市の南、神戸川の中流域に位置するこの地は古くから 砂鉄が採取され、製鉄の中
日御碕神社の御守り
お清めとして使う「お砂」。普段は御守り所の表には出ていません。 口頭で求めたいと伝えて下さい。
日御碕神社
徳川家光の命で七年の歳月をかけて造営された社殿は、桃山時代の面影を残す精巧な権現造りで、十四棟の社殿全てが国の重要文化財に指定されています。
日御碕神社の不思議
素戔嗚尊が天照大神より高い位置に祀られている配置を見ると、沈の文字を用いた別の意味が考えられます。 当時の出雲の国と、朝廷との関係が垣間見えてきます。天照大神を主とする神々の系譜は、朝廷サイドにたったものであって、この国
日沈宮
約一千年前、村上天皇の勅使により旧社地、経島から現社地に遷宮されました。 日沈宮の名は、日本海に沈みゆく黄金色に輝いた太陽の名をいただいて、付けられたと言われています。 海を照らし沈み行く光の道に感動します。 社伝によれ
日御碕神社
日の沈む西に位置し、「日沈宮」と「神の宮」の二社で日本の夜を守っています。 楼門をくぐり正面の御殿は下の宮、別名「日沈宮」と呼ばれ、祭神は天照大御神です。 高台の御殿は上の宮で別名「神の宮」、祭神は素戔嗚尊です。伊勢の外