出雲大社の御神徳は、「縁結び」と言われていますが、むしろ出会いと和合にあると思います。運命的な物ですが、結びの前に出会いが無ければ、何も生まれません。 そのパワーを沢山お持ちの神様が、大国主命です。沢山の姫神様との出会い
結びとは
出雲と言えば、「縁結び」ですが、恋愛や結婚を御祈願する人が後を絶ちません。出雲大社の御祭神は、大國主命は神話の中では、素戔嗚尊の子孫 で、素戔嗚尊の娘神であるスセリ姫を妻とします。その後多くの姫神との間に子どもをもうけ、
出雲大社とは
大きな注連縄が架けられた拝殿、その背後には高さ24メートルの威容をを誇る御本殿があります。またその背後には、神奈備山である八雲山がそびえています。 出雲大社は、普通は「いずもたいしゃ」と呼ぶと思いますが、出雲では、「いず
素鵞社
出雲大社の御本殿裏側に、素鵞社という社があります。此方も是非お参りして下さい。御祭神は、大國主命の御先祖にあたるスサノオの命です。 後方には、神奈備山の八雲山がそびえ神々が降臨する場所とされている山です。素鵞社の後ろに岩
出雲の地名の由来
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ち昇。 妻を籠らすために、宮殿に何重もの垣根を作ったけど、そこにある八重垣を巡らしたように。 スサノ
風土記に記載が無い国宝・神魂神社
我が国最古の大社造り 風土記の丘の西に出雲国造の館跡と神魂神社が隣接しています。荘厳な雰囲気の本殿は国宝で、火継ぎ神事も行われる 既存では最古の大社造り神社です。何故か風土記には、記載がありません。国造家の私的斎場の為だ
出雲国庁は何処にあったのか
出雲地方には、「風土記」と一致する遺跡があちこちに存在します。学術的に検証された遺跡も沢山あります。 出雲国風土記」の正確さが解りますが、国庁の場所が江戸時代から様々な説があります。「出雲国風土記」には、飯梨川の野城橋か
奈良時代、レクレーションは温泉と宴会
温泉に浸って一杯やり、歌や踊りでストレス発散する。これが古代出雲人の娯楽と聞けば親しみが湧いてきます。 「老若男女がひっきりなしにやって来て、日ごと市が立つかの様な賑わいで、その人々が入り交じって酒宴を楽しんでいる。」
奈良時代、豊かな暮らしの出雲の民
一般庶民は、粗末な掘立柱建物や竪穴式住居に住み、祖・庸・調などの税や労役を課せられ、生活は苦しかったようです。 しかし、出雲の民は自然の恵みを享受し、穏やかで豊かな暮らしをしていたようです。「出雲国風土記」に記されている
奈良時代「風土記」が伝える出雲地方
当時の人々の暮らしが、「出雲国風土記」にに記述してあります。この頃、大化の改新以来進められてきた統一国家としての形が見えてきました。 首長や高級官吏は中央政府から派遣され、それまでの統治者だった国造は、行政から退き祭事だ
佐太神能とはどんな舞なのでしょうか?
佐太神社の祭礼のひとつです。9月24日の夜に行われる御座替(ござがえ)神事で、翌日にかけて奉納される 舞で、出雲神楽の源流とされています。400年近い伝統を持っています。この神楽は、「七座」「式三番」「神能」 の三部構成
佐太神社
島根半島の中央部にあるのが出雲の国二宮、佐太神社です。古くから人々に深く信仰を受けていました。 本殿が三つあることでも知られた神社です。大差造りの社殿が三つ並んだ形になっています。 正面の正殿にはサダ・イザナミ・イザナキ
「出雲国風土記」に出てくる加賀の潜戸
洞窟の高さは十丈(約30㍍)で、この中で「佐太大神」が生まれたと記されています。母のキサカヒメが佐太大神を出産したとき弓矢をなくしてしまいました。 そこで、もし生まれてくる子が男の子であれば、なくした矢よ出てこいと願った
加賀の潜戸をご存じですか。
島根半島東部の日本海に面した港町、加賀に不思議な洞窟が二つあります。港の先端に大きく口を開けた洞窟これが「加賀の潜戸」です。 港に近い方が、旧潜戸、その先にあるのが新潜戸と呼ばれています。二つの潜戸を遊覧するグラスボート
宍道湖七珍(スモウアシコシ)
島根県を代表する汽水湖、宍道湖の特産物「宍道湖七珍」の覚え方です。「ス」はスズキのことです。スズキは海の魚ですが、春から秋にかけて 宍道湖に入ってきます。晩秋から初冬にかけて旬をむかえ、脂ものっています。松江の方では、一
出雲の阿国
出雲の阿国は安土桃山時代の人物で、歌舞伎の創始者といわれる女性です。出雲大社町の鍛冶屋の娘として生まれ、その後出雲大社の巫女になりました。 文禄年間(1592~1596)出雲大社の勧進の為諸国をめぐった際に披露した踊りが
隠岐に何故天皇や公卿が流刑されたのか
隠岐国は古くから「遠流の地」として知られていました。後鳥羽上皇、後醍醐天皇、そして、小野篁、藤原千春、平の致頼、源義親等々沢山の流人が 居ました。流罪は、「追放刑」として、日本では古くから行われていました。そもそも流刑と
天皇にまつわる伝承
西の島浦郷の赤江には後醍醐天皇が脱出したときにまつわる伝承が残されています。浦郷湾から伯耆国に戻る商人船がある事を知った後醍醐は、これに 乗るために小舟で美田浦から赤崎岬へと向かう途中に笏を海中に落としてしまいました。現
黒木御所説
県指定の史跡黒木御所は、隠岐郡西の島町別府にあり、別府港の左岸に見える黒木山の頂上に位置しています。黒木山は、地元の人達には天皇山とも呼ばれ 麓には碧風館という資料館があり、黒木御所に関する資料や絵画が展示されています。
後醍醐天皇の行在所
隠岐は古くから小野篁や後鳥羽上皇といった身分の高い人々が流された流人の島としても知られています。後醍醐天皇もその中の一人です。 鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天応は、正中元年81324)年に一回目の挙兵を計画しますが、失敗