出雲大社北島国造家の歴史14

14.霊元天皇永宣旨の御下賜  寛文5年(1665)徳川幕府は全国の神職に対し「吉田家の許し(許状)を受けなければ正規の神職として認めず、神社の雑役人にその身分を下げる」旨の文書を示達いたしました。  この幕府の示達に対

出雲大社北島国造家の歴史13

13.寛文御造営にともなう屋敷替え 第66世恒孝(つねのり)国造が承応3年(1654)に国造職に就任された時代は、日本の政権は織田、豊臣を経て徳川氏に移り、出雲の国も徳川家康の孫、 松平直政が藩主として善政を敷き、名君と

出雲大社北島国造家の歴史12

12.資孝国造の出雲大社遷宮執行  第57世出雲国造資孝臣は、父貞孝の後継者として貞治3年(1364)国造職に就任いたしました。資孝国造は翌4年10月、目安言上書(箇条書きの文書)を将軍家へ提出しました。 その内容は、第

出雲大社北島国造家の歴史11

11.南北朝動乱と貞孝国造  第56世国造貞孝臣の在職中は、南北朝の争いの真最中でした。南朝・北朝その勢力は一進一退でしたが、興国4年(1343)の末より正平に及ぶ間は一時南朝がその勢力を回復し、 足利氏の内部では兄弟叔

出雲大社北島国造家の歴史10

10.出雲国造北島家の専掌祭事  出雲国造家が北島・千家に両立してから後の出雲大社の神事は、年中を6ヶ月ずつに分けて分掌することになりましたが、北島国造家は神在祭(かみありさい) の行われる10月を頭(かしら)に12・2

出雲大社北島国造家の歴史9

9.出雲国造家の通り名 出雲大社北島国造家は、安元2年(1176)に出雲大社の仮殿遷宮を斎行された第48世国造宗孝臣以来、通り名として「孝」(のり)を用いてきました。 現第80世建孝(たけのり)国造まで実に百数十年を数え

出雲大社北島国造家の歴史7

7.出雲国造北島家と大庭の里  松江市大庭地区は「八雲立つ風土記の丘」があり、また旧国庁跡も発見されていて、出雲国の中心地であったということは定説となっています。出雲国造北島家では、 この大庭の地を出雲国造家発祥の地と伝

出雲大社北島国造家の歴史6

6.出雲国造家の分立 始祖天穂日命以来、第54世孝時国造まで出雲国造家は一統で続いてきました。時あたかも南北朝時代に及び、時代の風潮もあってか、第55世清孝国造の後をめぐって兄弟の間に争いが生じ、 以後北島・千家と分立す

出雲大社北島国造家の歴史5

5.建武中興と孝時国造  第54世国造孝時臣は父泰時国造から国造職を譲り受け、延慶元年(1308)その任に就き、29年間国造職を勤められました。  ちょうどこの頃の元弘2年(1332)3月、後醍醐天皇は北条高時により隠岐

出雲大社北島国造家の歴史4

4.出雲大社神主職と検校職  出雲大社国造家の長い歴史のなかでは、いろいろな危機があったと思いますが、これから記す事件は一番大きな危機でした。  時代は平家が滅亡して源頼朝が幕府を開いた頃です。頼朝は平家との戦いに勝った

出雲大社北島国造家の歴史3

3.出雲国造神賀詞(かんよごと)の奏上  醍醐天皇の延喜の御世に定められた今でいう法令集は延喜式と呼ばれ、今でも歴史研究の上に大きな役割を果たしています。その延喜式の中に臨時祭式という項目がありますが、 それによって「出

出雲 長浜神社の国引き神話。

国引き神話で有名な八束水臣津野命は「出雲の国は細長い布切れのような国だなあ・・・ 最初に国を小さく作りすぎてしまった。だから作り足して大きくしよう」と言われ、国引きを決心されました どこかに継ぎ足して縫い合わせられるよう