加茂岩倉銅鐸39個の内、7このの絵画が有り中でも写実性に富んだ絵画が特徴のひとつです。これらの銅鐸に描かれた、鹿、猪、トンボ 亀、の他に神やシャーマンとも言われている人物の顔などが、いったい何を意味しているのか、非常に興
加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸の謎
加茂岩倉遺跡は、平成八年十月十四日、農道の整備工事中に銅鐸の出土によって偶然発見されました。青銅器埋納遺跡です。 その後の発掘調査によって、最終的な銅鐸出土総数は全国最多の39個となりました。出土数の多さもさることながら
荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣の謎其の四
358本の銅剣出土は、考古学史上まれに見る大発見で、これだけでもかなりセンセーショナルな出来事ですが、実は荒神谷遺跡の大発見にはまだ 続きがありました。その翌年、銅剣が出土した地点からわずか7㍍の地点で、銅鐸6個と銅矛1
荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣の謎其の三
発掘調査によって、数多くの考古学的、学術的な知見が得られた事は、言う迄もありませんが、なぜこれほどまでの数多くの銅剣が埋められていたのか 誰もが、真っ先に疑問に思う事でしょう。しかし、この疑問に対し、明確で説得力のある答
荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣の謎
銅剣は、低い丘陵の中腹斜面を削り出して造った埋納抗に、刃の部分を上下にして奥壁と平行に整然と並べられていました。東西の幅2.6㍍ 奥行き1.5㍍の平坦面に四つの列に分けられた銅剣がギッシリと納められていました。荒神谷遺跡
荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣の謎
島根県立古代出雲歴史博物館には、青銅器をテーマにした常設の展示室があります。壁面いっぱいに並べられた荒神谷遺跡から出土した銅剣が目の前に 飛び込んできます。国宝に指定された358本の銅剣が、金色に輝く模鋳銅剣群と共に目に
和鋼博物館
日本の伝統的製鉄法「たたら製鉄」に関する国内唯一の総合博物館で、たたらの技術や和鉄の流通など重要有形文化財等多くの資料を展示してあります。 たあらの現場で使用された「天秤ふいご」を踏む事の出来るのは、全国でもここだけです
金屋子神話民族館
人類と鉄との遭遇、製鉄技術の発現、野たたらから永代たたらへの技術革新、流通加工の普及。鉄生産の風土のなかで、工人達が技術の支えとしてきた 「こころ」の深層を、大地に刻まれた生産・産業神の歴史としてとらえ、その文化遺産を原
金屋子神社
日を扱い製鉄・鍛冶。鋳物などを生業」とする人々が、その守護神としてお祀りしています。「金屋子神社」は、伝えによれば、高天原から播磨国志相郡岩鍋 (兵庫県宍栗市千種町岩野辺)の池に天降って、鍋・釜などの鉄器鋳造の技術を教え
田部家土蔵群
島根県雲南市吉田町吉田 田部家は、1707年から1903年迄の間に21の蔵を建築しました。その土蔵群の中には鉄蔵、扶持蔵 等が有り、吉田村が日本のたたら製鉄の中心地で有り、鉄と共に栄えた村であった証となっています。 最先
櫻井家住宅「重要文化財」可部屋集成館
島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655 櫻井家は、戦国時代の武将、塙団右衛門の末裔家。正保元年(1644)、第三世直重は出雲領上阿井の 地に移り、屋号を「可部家」と呼び、銘鉄(菊一印)を創り出しました。その業績が松江藩に認め
櫟原家「国登録重要文化財」絲原記念館
島根県奥出雲町大谷856-18 絲原家は、中世武家の一門で寛永元年(1624)備後国から移住し、初めは農林業を営み、寛永13年 (1636)からは、たたら製鉄業も開始し藩政期には松江藩の鉄師頭取を務め、大正12年まで28
奥出雲たたら御三家
中国地方ではふるくから「たたら製鉄」が盛んに行われており、中でも奥出雲地方で産出される鉄は その質、量ともに群を抜いており、その中心的存在であったのが、鉄師御三家であたようです。 現在の雲南市、奥出雲町で造られる鉄は、安
たたら鉄の道
たたらの歴史 我が国における人々と鉄との出会いは縄文時代末期に中国大陸から伝えられたものと考えられています。 弥生時代初めには、鉄素材を輸入に頼りながらも国内で鉄器の加工生産が開始されました。 一説には、弥生時代後期にな
康国寺
応安2(1369)年、孤峯覚明の開山によると伝えられています。臨済宗妙心寺派のお寺です。庫裏の裏にある旅伏山を借景に池と 枯山水で構成される庭園は、庭師沢玄丹の手によるのもで、松江藩七代藩主松平治郷の寄進であると言われて
佐香神社
出雲杜氏の信仰厚い酒造り発祥に地 「出雲国風土記」に楯縫郡(出雲市平田町の地区名)の記述には、佐香郷の地名の由来の説明として、多くの神々が集まり、調理場を建てて酒を醸造し 何日も酒宴を続けた後、解散したとある。 同郷にあ
一畑薬師
通称は一畑薬師、臨済宗妙心寺派のお寺です。寛平6年(894)小伊津の漁師が海中から薬師如来を拾い、この地に薬師堂を建立し 出家して如来に仕えたのが、始まりと伝えられています。中世には薬師信仰や修験道の霊場として広く信仰さ
平田町木綿街道
江戸時代末期から明治時代初期にかけて、「平田木綿」は高く評価され、各地の商いのために、船川周辺には木綿の集散地として 市場町を形成していました。当時の面影を残す平田独特の2階建て妻入り造りの商家や旧家が立ち並び、昔からの
平田船
平田の水田地帯で、田への往復や荷物や、稲などの運搬など水田耕作用に使用されていた小型の舟で、平底であるのが特徴です。 平田周辺で同じ目的で使用されている高瀬舟や宍道湖で使用されている漁船と比べると長さは短く、幅はやや広い
平田町の一式飾り
平田一式飾りの由来は、平田の町に疫病が流行した際に、御神幸(おたび)をすることにより疫病が退散したため、寛政5年(1793) 平田寺町の住人で表具師の結便屋十兵衛が、感謝の気持ちを込めて茶器一式で大黒天像を作って天満宮の