県指定の史跡黒木御所は、隠岐郡西の島町別府にあり、別府港の左岸に見える黒木山の頂上に位置しています。黒木山は、地元の人達には天皇山とも呼ばれ 麓には碧風館という資料館があり、黒木御所に関する資料や絵画が展示されています。
後醍醐天皇の行在所
隠岐は古くから小野篁や後鳥羽上皇といった身分の高い人々が流された流人の島としても知られています。後醍醐天皇もその中の一人です。 鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天応は、正中元年81324)年に一回目の挙兵を計画しますが、失敗
中国地方の山間部ではワニ(サメ)を食べます。
島根県を初めとして、山陰にはワニが登場する神話や伝承が数多く残されています。その代表格が「古事記」に出てくる、因幡の白兎です。 その他にも「出雲国風土記」にもワニが登場する神話が二例あります。ひとつは、意宇群の安来郷でに
王墓と呼ばれる西谷三号墓
弥生時代後期後半に造られたと考えられています。その規模は50㍍×40㍍で全国的に見ても最大級の弥生墓です。当時の出雲には強大な勢力を 持つ豪族がいたと考えられています。墳丘裾部には平らか河原石を2万個から3万個を敷き詰め
四隅突出型墳丘墓の起源
源流は朝鮮半島からきたようです。弥生時代前期にその原型が渡来し、弥生時代中期の方形貼石墓を経て四隅突出型墳丘墓になったと考えられています。 弥生時代中期後半に広島県三次盆地周辺で四隅墓が誕生し、後期になると出雲を中心に山
出雲地方に多い四隅突出型墳丘墓
方形の墳丘墓の四隅が放射線状に突出している古墳の事です。この独特の形を持つ墓は、弥生時代中期後半から後期にかけて山陰地方に多く見られ 「出雲ブランド」として考古学者には、広く知られています。また、中国地方の山間部の広島県
出雲における勾玉生産
古墳時代前期から生産され少しずつ生産量は減少しますが、奈良・平安時代まで行われていました。鉄製工具による穿孔技術の採用や花仙山産の碧玉製勾玉の 生産といった出雲ブランドの誕生も古墳時代から見られます。 奈良県曽我遺跡など
勾玉の形
勾玉の形を魂の形を表現したとする人類学者もいます。鉤形の装身具には身体から遊離する魂をつなぎ止め、外部から侵入してくる邪霊を防ぐ役割が あったと考えられます。この勾玉を始め多くの玉類を中心的に生産していたのが、出雲地域で
勾玉は何故あんな形なのか?
勾玉や管玉などの玉類は、その独特の形状や目を見張る様な色彩から、非常に神秘的な美しさを感じてしまいます。 原始古代の人々もそう感じていたようです。古墳や遺構などの発掘調査によって多くの玉類が、出土しています。 玉類はアク
石見神楽
その源流は、文化文政期の国学台頭とともに古事記・日本書記を原拠とする神話が加わり、演目も豊富で極めて多彩です。 往時、神の御心を和ませるという神職によっての神事でありましたが、明治初期からは土地の人々によって、民族芸能と
出雲の神楽
☆出雲地方の代表的神楽(佐陀神能) 佐太神社の祭礼のひとつで、9月24日の夜に行われる御座替(ござがえ)神事で、翌日にかけて奉納される 舞で、出雲神楽の源流とされています。400年近い伝統を持っています。この神楽は、「七
「番内」のいわれ
番内は本来、吉兆神事の先達をして猿田彦や随神で あったものが、明治の中頃から厄年の男などが扮装を して「悪魔払い」と言って、家々を巡り歩くようになりまし た。結局は吉兆の番人、あるいは行列の護衛に当たる ものであったと思
出雲大社「吉兆」の歴史といわれ
慶長年間から始まったと伝えられる「吉兆」さんは、大社の町に十三組もあって、その絢爛豪華さは神都の新春を飾るにふさわしい御神事として今も盛んに行われています。 この「吉兆」さんは高さ10メートル、巾1メートル余りもある金襴
卑弥呼の鏡が出土した?其の三
三角縁神獣鏡は、三世紀の古墳からしか発見されていません。三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡で無いと言う説もあります。 神原神社古墳出土の鏡に「景初三年」の銘が刻まれているのは、紛れもない事実で消える事はありません。 国内には、「
卑弥呼の鏡が出土した?其の二
国内で二例目となる「景初三年」名鏡の発見に、全国から熱い視線が注がれる事となりました。「景初」とは中国三国時代の魏の年号で、その「三年」 は邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った西暦239年で。この時魏の皇帝より「親魏倭王」
卑弥呼の鏡が出土した?其の二
国内で二例目となる「景初三年」名鏡の発見に、全国から熱い視線が注がれる事となりました。「景初」とは中国三国時代の魏の年号で、その「三年」 は邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送った西暦239年で。この時魏の皇帝より「親魏倭王」
卑弥呼の鏡が出土した?
八俣の大蛇伝説の舞台、斐伊川かつては「出雲大川」と呼ばれていました。昭和47年(1972)支流の赤川河川改修工事が進む中、工事に伴って 「出雲国風土記」にも名を連ねる神原神社が移築されることとなり、本殿の下にあった古墳の
加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸の謎其の四
荒神谷遺跡の銅鐸もほぼ24㎝弱の大きさで揃っており、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸よりも一回り小さいのも気になる所です。 また、加茂岩倉遺跡銅鐸では、鈕の菱環部に「×」刻したものが14個確認されていますが、荒神谷遺跡から出
加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸の謎其の三
謎なのが、同じ形式の小型鐸は勿論ですが、制作時期の違う大型鐸も、それぞれの大きさがほぼ揃っている事です。この事実の示す事は、「最初から 大小の銅鐸の大きさを意識して集めた」ということです。最初から「入れ子」にして埋納する
加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸の謎其の二
銅鐸の埋納の謎に焦点を絞って出土銅鐸を見てみましょう。45㎝前後の大型鐸が20個、30㎝程度の小型鐸が19個で、大型鐸の内側に 小型鐸を収めた、「入れ子」の状態で発見されました。小型の鐸は同じ形式ですが、大型鐸は、形式的