白峯寺の北側に崇徳天皇白峯陵がある。天皇や皇后、上皇などの墓所である御陵は、一般に京都や奈良など当時の都の近くに造られている。都から遠く離れた所に造られているのは、下関の安徳天皇陵と淡路島の淳仁天皇陵、そして、ここ白峯陵だけである。崇徳上皇は、平安時代の終わりごろの天皇の位をめぐる争い(保元の乱・1156年)に敗れ、今の坂出市あたり
に流された。伝説によると、都を恋しく思いながらさみしく日々を過ごしていた上皇は、せめて自分の書き写したお経だけでも都の寺に納めたいと願った。しかし、都の貴族たちはこのお経には呪いがこめられていると考え、これを都に持ち込むことを許さず送り返してきた。そこで上皇は、都の貴族たちに深い怨みをいだき「魔王となってこの世を悩まし、乱してやろう」と、らの指を食いちぎり、流れる血で呪いのことばをお経に書いて海に沈めた。その後、上皇は深い怨みを持ち、悲しみのうちに亡くなったという。
上皇の死後数年たって、生前から親しかった西行法師が訪れた時には、上皇の御陵はまだ土を小高く盛り上げただけのそまつなものであった。一晩中お経をあげ、霊をなぐさめていると突然稲妻が光り、怨霊となった上皇が現れ、怨みをのべられた。西行が「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」(意訳:天皇の身分はこの世だけのことです。死んでしまえば、人はみな同じです。
昔の身分や、怨みを忘れて、おだやかにお眠りください)と歌でおなぐさめしたところ、上皇の霊も表情をやわらげ、その姿を消したという。
実際の世も上皇の死後、都では変死する貴族が続出し、天候不順が続いたり、地震もたびたびおこったりするなど不安定な世の中になった。また、政治の中心は貴族から武士に移っていき、戦いが続いた。
当時の人々は、これらを上皇の呪いのせいだと考えて恐れた。
そこで、上皇の怒りをしずめ、成仏してもらうために1191年に、御陵の東側に頓証寺殿が造られた。さらに、1414年に後小松天皇は上皇の成仏を願い、自身で筆を取った額(勅額)を頓証寺に奉納した。
都の皇族や貴族をふるえあがらせたことが嘘のように、白峯御陵は緑の中にひっそりとたたずんでいます。