神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったといいます。
仏教の伝来は538年、あるいは552年ですが、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られています。仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。これも良く知られています。
ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にありますね。それで、やっぱり100%仏教とは行かなかったようです。そのほかの人々も同様だったのでしょう。なにせ、貴族も豪族も、みな、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのですから。
そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方でした。その一番手が八幡神だったそうです。八幡神は応神天皇のことだといいます。八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったようです。つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけです。
もっともこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げたということでもなくて、法華経にその根拠を求めることができるといいます。それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れていましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないでしょうか。一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐す(います)だけ、ということでしたから、さほど気にはならなかったのかも知れません。
本地垂迹説とはこういうことなんですが、これはうまく考えたようにも思えますが、どこかご都合主義的です。明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説も消滅しました。(メキラ・シンエモン)
神仏習合・本地垂迹