島根県雲南市吉田町吉田
田部家は、1707年から1903年迄の間に21の蔵を建築しました。その土蔵群の中には鉄蔵、扶持蔵
等が有り、吉田村が日本のたたら製鉄の中心地で有り、鉄と共に栄えた村であった証となっています。
最先端技術を武器にした「エボシ御前」らは、「シシ神」の森の木々を伐採して焼いた木炭で鉄をつくり、莫大な財をなしました。
日本最大の「たたら製鉄」地帯だった中国山地にも、幾人もの「エボシ御前」がいましたた。
その中でも、代々の当主が長右衛門の名を継ぐ雲南市吉田町(平成の合併前は吉田村)の田部家は「日本一の山林王」の異名をもつ富豪中の富豪です。
戦後の農地改革でも山林は対象とされなかったため、今でも膨大な山を所有しつづけていらしゃいます。
旧吉田村(雲南市吉田町)の中心部から北へ2キロ、標高350メートルの山奥の谷間に、20数軒の家が長屋のように密集する集落「菅谷山内(さんない)」があります。
山内」は、「たたら製鉄」に従事する人々が住んだ集落です。製鉄の炉を収める柿葺き(こけらぶき)の「高殿」は、高さ約8.6メートル、18.3メートル四方あり、
国の重要文化財に指定されています。1751年から1935年まで鉄を生産し、「たたら製鉄」終了後は木炭の保管小屋として使われてきました。
「高殿」の脇にある桂の木は、4月はじめの3日間に一斉に芽吹き、まるで鉄を溶かす炎のように真っ赤に染まります。
たたら時代の「菅谷山内」では、田部家の使用人として、山も土地も家もいっさい貸し与えられていました。私有財産がほとんどないかわりに家賃もいらない。
働きに応じて米や金をもらい、「だんさん(旦那さん)のおかげ」で生活していた。現在は12世帯28人ほどの集落に、かつては40世帯、約170人が住んでいたということです。
「たたら製鉄」終了以降も、田部家の山仕事で生計を立て、「山内」の家々の長男は、家を継いで田部家の炭焼きに従事することが半ば義務づけられていました。
1965(昭和40)年、封建的な制度をあらためることになり、家屋を退職金がわりに分配され、自分たちの持ち家になりました。今も、「山内」の土地は田部家が所有し
土蔵群
田部家山内