妻神が自らの魂納める

江戸時代の文献「出雲の国風土記抄」には、「神納山」の由来について、イザナキの神を追いかけたイザナミの神が自ら魂を納めた地
となっています。明治33年(1900)当時の宮内省は地元有志の上申を受け、この山を「陵墓参考地」に指定しました。
現在も宮内庁の管理下で、立ち入り禁止になっています。区域内には直径約20㍍の円墳が有ると伝えられています。

古代出雲の勢力は存在していたのか?

「古事記」などには記載されていても、遺跡などの物的証拠乏しい中では、強大な勢力が出雲に存在していたとは考えられていませんでした。
しかし、1980年以降様相は大きく変化します。84年~85年荒神谷遺跡発掘では、弥生時代中期の銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個
がまとまって出土しました。特に銅剣は、今まで日本で確認されていた約300本を一度で大きく上まりました。96年に発見された加茂岩倉遺跡
の銅鐸の数は国内の一括出土数としては最高の39個。出雲は弥生時代の青銅器の全国最多出土地となりました。
それ以降の出雲には変化が見られます。独特の「お祀り」が盛んに行われ、「四隅吐出型古墳」が出現し、埋葬者への大がかりな弔いが執り行われ
る様になりました。古墳の中には全長が50㍍を超える西谷古墳群のような巨大な物もあります。まだまだ大きな謎に包まれていますが、
大和の人から見れば出雲は決して無視出来ない存在であったようです。

 

岩坂陵墓参考地(神納山)かんのやま