15.明治維新と出雲国造家
明治維新はわが神社界にとってもそれまでにない大改革をもたらしました。すなわち、神社の国家管理という基本方針のもとに次々と施策がうち出され、
それによって杵築大社改め出雲大社(明治5年太政官通達)の場合も、官幣大社として格付けされる反面、従来のような両国造制のもとで隔月交代に奉仕することが認められなくなりました。
かくして明治5年正月、北島全孝(たけのり)国造は千家尊澄(たかすみ)国造とともに御杖代(みつえしろ)の世襲職を免ぜられ、
改めて脩孝(ながのり)国造と千家尊福(たかとみ)氏とがともに出雲大社少宮司に任じられました。しかし、いかなるわけか、
―おそらくいろいろと経緯があったと思われますが―明治6年3月、脩孝国造は再度明治政府の命により岡山県の吉備津神社宮司に転勤を命ぜられ、
千家尊福氏が出雲大社宮司に任命されたのであります。ここに及んで脩孝国造の心中は察するに余りあるものといえましょう。いかに政府の命とはいえ、
わが北島国造家の伝統を無視しての命令にどうして従うことができましょうか。脩孝国造は断固としてこの任命を拒まれました。
(脩孝国造帰幽の際の誄詞には―同年3月吉備津神社の宮司に任じられ、願によりその職を免ぜられ―とある)
しかし、このことは時の神社を支配する明治政府という大きな権力に背くことであり、自然のなりゆきとして北島家は出雲大社への直接の奉仕を離れる結果となり、
以来いろいろ曲折を経て今日に及んでいる次第です。その詳細を一々述べることは差控えますが、次の二つのことだけは明記しておきましょう。
その一つは、明治5年に先立つ版籍奉還までは、北島・千家両家はともに松江藩を通じて対等の家禄を安堵されていました。それが維新の改革によってすべて失われましたが、
出雲大社は官幣大社として財政的にも国家の保護を受け、その体制は昭和の終戦まで続くのであります。
次にその二は、わが北島家は不幸にも明治維新の一番大事な時期、すなわち明治5年正月にその家屋敷の全部を焼失しました。(もっとも、四脚門・大門と土蔵・文庫は類焼をまぬがれ、
伝来の古文書、その他の家宝は現存しています)
このような二つの大きな打撃を受けたとき、前述の吉備津神社転勤問題が起こるのであります。今日冷静に考えるとき、脩孝国造はよくぞこれらの大打撃に打ち克ち、
出雲大神への奉仕とその教化という、わが家の伝統を貫かれたと思います。すなわち、脩孝国造は明治に入っていち早く出雲大社崇敬講社を千家尊福氏とともに組織されていましたが、
千家尊福氏がその講社を千家邸に移され「大社教」(今の出雲大社教)に改組されたとき、脩孝国造は尊福氏と袂を分かち、北島邸に「出雲教会」(今の出雲教)を組織し、
出雲教会を主宰し、出雲大神を奉斎し、島根県内はもとより全国にわたる信徒の信を得て、よく今日の出雲教の基を築かれました。以後出雲教が発展しつつ今日に及んでいることは周知のとおりです。
なお、明治以後昭和20年の敗戦まで、千家家の方もそうでありましたが、わが北島家も華族に列せられ、男爵を授かっていました。
その間、第77世斎孝(なりのり)国造、第78世貴孝国造はともに出雲教大教主として神勤奉仕する一方、貴族院議員としても奉公し、ともに従三位に叙せられました。
前英孝(ふさのり)国造は昭和28年斎行の出雲大社昭和の大遷宮に出雲国造家嗣子として、時の国造貴孝又千家尊祀宮司を補佐し、その祭儀に神勤奉仕し、続いて生じた出雲大社拝殿、
庁之舎の炎上後の復興にあたっては、復興奉賛会理事としてその目的達成に誠心を尽し、再建に全力を注がれました。
現建孝(たけのり)国造は平成17年に国造を継承し、家門の伝統を負われて今日にいたっています。また、平成20年4月に斎行された
出雲大社平成の大遷宮事始めの仮殿遷座祭に御奉仕なされると共に、平成大遷宮完遂に出雲教挙げて支援されています。