14.霊元天皇永宣旨の御下賜
寛文5年(1665)徳川幕府は全国の神職に対し「吉田家の許し(許状)を受けなければ正規の神職として認めず、神社の雑役人にその身分を下げる」旨の文書を示達いたしました。
この幕府の示達に対し、時の第66世恒孝国造は、翌寛文6年4月、朝廷に出雲国造家の神代以来の家格を明細に述べ、
「出雲国造家はこの度の幕府の示達から当然除外されて然るべき旨」を奏上いたしました。この奏上を受けて、時の天皇、霊元天皇は恐れ多くも下記の永宣旨(えいぜんし)
を御下賜なさいました。
「出雲国造は本寿詞(よごと)を奏し、恒に潔敬を異にし、神のため自重す、すなわちすべからく永くその職を掌るべきなり。また兼ねて文は天に風調し、慎みて撫教布信の有典を徴し、
武日道泰、いよいよ仁寿無彊の祝延を符(しる)す、政術に順(したが)い善化す。これ象を北辰に取り、磐石盛治を安ずる、猶慶を南極に徽すがごとし、喜感遂に通じ、瑞応斯に表われる、
宜しく誠款を効(いた)すべし、夙夜口に心祷を祝(のっと)すのみ。然れば則ち社中の進退においてなり、事巨細(こさい)無くその制度を規倣すべしとてへり。天気此くの如し。
仍つて執達くだんの如し。
寛文七年五月七日
国造館 左少弁(草名)
出雲国造館 左少弁(草名)」
上の永宣旨を前出の村田正志先生は『出雲国造家文書』の中で次の如く要約しておられます。
「国造家は古来の由緒に基いて、大社の神職を永く掌るべきこと、及び社中の進退は巨細となくその制度に規倣すべしというにある。即ち大社の祭祀と大社に於ける一切の支配権を、
永久に国造家に付与することを確認されたのである。ここに本文書の重大なる意義が存する次第である。以上の事実は別に事新しいことではなく、従来とも厳重に守られて来たのであるが、
この時大社の正殿式の造営が完了し、正遷宮も滞りなく執行されたに際して公認されたのである」
以上の如くこの文書が出雲国造北島家に国指定文化財として今も秘蔵されていることは「出雲大社」並びに「出雲国造両家」にとって大きな誇りであり名誉なことと思われます。