12.資孝国造の出雲大社遷宮執行

 第57世出雲国造資孝臣は、父貞孝の後継者として貞治3年(1364)国造職に就任いたしました。資孝国造は翌4年10月、目安言上書(箇条書きの文書)を将軍家へ提出しました。
その内容は、第55代清孝のあと、第56代貞孝(北島)孝宗(千家)と国造家が分立以来、出雲大社の御遷宮が延び延びになって、
後村上天皇より前項のように貞孝にご下命になっていたことが未だ実行されていないので、速やかにこの遷宮を貞孝の嗣子である資孝に命じてほしい旨が記されていると推察されます。
右に対し足利義満将軍の管領細川頼之より応安元年(1368)9月9日付けで出雲大社宛に次のような公文書が届いています。

 出雲国杵築大社仮殿造営の事、先例にまかせ当国段米(たんまい)を以てその功を終るべきの由、守護人に仰さるところなり。早く急速の造功を遂げるべきの状、仰せにより執達くだんの如し。
  応安元年九月九日             武蔵守(細川頼之)(花押)
  当社神主(北島資孝)殿

 しかし、このような書面が着いてもなお13年の間御遷宮は実行されませんでした。そこで永徳元年(1381)4月2日将軍足利義満より次のような御沙汰が発せられました。

 出雲国杵築大社仮殿、造替あるといえども、国造職相論により、遷宮今に延引の条はなはだ然るべからず。早く遷宮を遂げ奉らるべし。本訴に於いては、急速申沙汰せしむべきの状くだんの如し。
  永徳元年四月二日             隠岐守(山名義幸)(花押)
  国造北島(資孝)殿

 こうして、その後5年経過した元中3年(1386)10月28日、資孝国造が仮殿式遷宮を斎行し、多年の間未解決のままであった遷宮がやっと成し遂げられたのです。
この遷宮は、国造家が北島・千家に分立した後の初めての遷宮であったことに意味があると思われます。

出雲大社北島国造家の歴史12