8.出雲国造家の家名
上代には姓氏はありましたが苗字(家名)はなく、出雲国造家は第17世宮向国造のとき出雲という姓氏を賜り、これを伝承してきました。中古に姓氏の他に苗字を用いる習慣が生じ、
苗字としてその家の家族が居住する地名や、所領の地名を併せて称えることが始まり、いつしか姓氏を称えないで苗字だけを用いるようになったと云われています。
北島の家名もこの苗字の発生と時を同じくし、中古以来用いたと察せられます。
北島家の家伝によりますと、往古は松江の水海(宍道湖・中海のことか)は今の杵築の西に広がる大社湾に通じ、大庭の地から見ると今の北山山系は離れ島の如き地形だったので北根島と呼び、
杵築に移住した出雲国造家を始めは北根島の国造と呼んでいましたが、やがて北島の国造と呼ぶようになったと伝えています。
出雲国風土記が編纂された頃の出雲地方の地形といえば今の簸川平野の西半分は神西湖で、ここに菱根池を経た斐伊川が東から、神戸川が南から流れ込んでいてほとんどが湿地帯であり、
北山山系は一見島の如き様相であったと考えられますので、出雲国造家を北根島の国造、転じて北島の国造と称したこともうなずけるように思われます。
また、北島という姓は古文書に記載されているという事実があります。
大同3年(808)に編さんされた医薬書『大同類聚方』(だいどうるいじゅうかた)に「出雲薬、出雲国意宇郡人大神臣佳成所上朝家之方国造北島連等之所世伝也」(旧帝国図書館本巻三)、
「見薬又出雲国造北島之方元貴神方也」(同本巻二十二)とあり、国造家の姓は臣ですので連としてあるのは誤りとしても、これら北島の姓は出雲国造家を指すと推察されます。
大同3年当時の出雲国造は第32世の人長国造で、神賀詞奏上が続いており、出雲国造家が北島・千家に分立するより25代も昔のことで、
その頃から国造家が北島を称したことは家系を考える上からたいへん重要な点ですので書き留めておきます。