7.出雲国造北島家と大庭の里
松江市大庭地区は「八雲立つ風土記の丘」があり、また旧国庁跡も発見されていて、出雲国の中心地であったということは定説となっています。出雲国造北島家では、
この大庭の地を出雲国造家発祥の地と伝えていますが、このことは一般にあまり知られていないようですのでここに記すことにします。
出雲国造北島家に伝わる系図の第26世国造果安の項に次のような記事があります。「続日本紀元正天皇霊亀2年(716)2月丁巳、
出雲国造外正七位上出雲臣果安、斎(とき)おわり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以って奏聞す、この日百官の斎か。果安より祝部に至り百十余人に位を進し禄を賜う。
各差(しな)あり。伝に云く、始祖天穂日命斎(いつき)を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云々。」
この記録から見ると出雲国造家は、25世国造兼連臣(一説では23世国造帯許臣)まではその居住の地は今の松江市大庭にあり、
26世国造果安の時代に現在の大社町杵築の地に移住されたことを証明していると思われます。
出雲国造家は杵築に移住した後も大庭との関係が続いています。例えば、大庭にある神魂神社で例年12月に斎行される古伝新嘗祭(しんじょうさい)には北島・千家両国造が参列し、
幣帛を供進し、玉串を捧げて拝礼する習わしになっています。また、神魂神社の正遷宮祭には北島貴孝第78世国造が正装で参列し、奉幣行事を斎行いたしました。
そのほか、意宇6社(古代の意宇郡に相当する地域にあり、とくに出雲国造家にゆかりのある6つの神社)中、八束郡東出雲町の揖屋神社、松江市山代町の真名井神社、大草町の六所神社、
佐草町の八重垣神社及び玉湯町の玉造湯神社の戦後の遷宮にあたっては、古例に従って第79世英孝国造が参向し、幣を捧げ玉串を奉って拝礼いたしました。
また、平成17年、第79世英孝国造が帰幽されたのに際し、現第80世建孝国造は神魂神社において古例に則った神火相続の重儀を斎行されました。