3.出雲国造神賀詞(かんよごと)の奏上
醍醐天皇の延喜の御世に定められた今でいう法令集は延喜式と呼ばれ、今でも歴史研究の上に大きな役割を果たしています。その延喜式の中に臨時祭式という項目がありますが、
それによって「出雲国造神賀詞奏上」の式次第や、「神賀詞」の全文を知ることが出来ます。
神賀詞奏上は出雲国造がその任に就いた時や遷都など国家の慶事にあたって行われていました。それは、先ず国造が朝廷に参内して国造に任命され、
負幸物(おいさちのもの)〔金装横刀1口(ひとふり)・絲20?(く)・絹10疋(ぴき)・調布20端(たん)・鍬20口〕を賜り一旦帰国し、
潔斎すること1年、その後ふたたび参内して出雲国造神賀詞を奏上します。このとき、国造が諸祝部(はふりべ)並びに子弟等を率いて入朝したことや、数々の献上物を奉ったこと、
又その式が神祇官長自らが監視し、あらかじめ吉日を卜(ぼく)してその旨を奏聞し、宣旨の下で斎行されたこと等、細々とした点に至るまで延喜式に記されています。
また、延喜式には神賀詞の全文も記されており、その内容から考察いたしますに、この神賀詞は、国造潔斎の1年間、出雲186社の神々と、
特に出雲大社に朝廷と国家の安泰を祈願したことを朝廷に復命する性格のもので、神賀詞に神の字が付けられているのは、国造が神々になり替わって奏上したことによると思われます。
また、神賀詞は既述の出雲大社創建の由緒、即ち皇室が顕露のことを治められ、出雲大社御祭神が幽のことを治められるという御神徳により斎行されたと見るべきでしょう。
出雲国造神賀詞奏上のことは、国造家に伝存する『出雲国造家系譜』の注記によれば、第26世国造出雲臣果安が元正天皇の霊亀2年(716)2月に、
第27世国造出雲臣広島が聖武天皇の神亀元年(724)正月に、第28世国造出雲臣弟山が崇謙天皇の天平勝宝2年(750)2月及び3年(751)2月に、
第29世国造出雲臣益方が称徳天皇の神護景雲元年(767)2月及び2年(768)正月に、第31世国造出雲臣国成が桓武天皇の延暦4年(785)2月及び5年(786)に、
第32世国造出雲臣人長が桓武天皇の延暦13年(794)2月に、第34世国造出雲臣旅人が嵯峨天皇の弘仁2年(811)3月及び3年(812)3月に、
第35世国造出雲臣豊持が淳和天皇の天長10年(833)4月に夫々国造新任に際し参内し、神賀詞を奏し物を献じ、位を賜った事が記されています。これらの記述は続日本紀、
日本後記、類聚国史等の正史(国家が編纂した歴史書)に記されている記述と一部異なる部分がありますが、参考までに記しておきます。
出雲国造家がこのように手厚い処遇を受けたのは、出雲大社御祭神大国主命が神道(宗教)を通し、陰から朝廷を護られ、出雲大社に奉仕し、
また代々の国造もよくその思想を理解したがために賜った光栄であることを今も肝に銘じ、神勤奉仕に励むのが国造家の道であり栄誉でもあります。