さて、高麗の高僧・一然が1280年頃に著した三国遺事には、「韓国慶州近く迎日県に住むある男が日本海へ行き、履き物を脱いで海藻を採っていたら、
乗っていた岩が日本に飛んで来て、男は王になった」と言う話がある。小澤夫人にその海藻は何と思うかと尋ねると、ワカメかも知れないが、
ウップルイノリではないか、と言われた。今ではノリ用の地下足袋を履くが、小澤さんが嫁いで来られた1954年頃は、「島」に着くと、
家から履いてきた泥の付いた草履を脱いで手前の岩の上に置き、新しい草履に履き替えてノリを採っていたからである。
渡部勇さんに、三国遺事と似た話が十六島にあるかどうか尋ねると、昔、朝鮮から船に乗って人がやってきた。村人は、海賊が漂流したのかと思い、
武器を持って集まって見たら十六人の僧侶であった。僧侶達は船に沢山のお経を積んでいて、島で護摩を焚き、お経を上げた。その島が十六島岬の先端の経島(きょうじま)で、
石碑が建っている。また、護摩の灰を磯に撒いたらノリがよく生え、僧侶は食べられることを教えて呉れた。
ウップルイ(十六島)の語源は、海苔に付いた砂を「打ち振るう」の訛りとする説(故三浦昭雄)の他、古代朝鮮語の断崖絶壁(?)との説もある。
また、この僧達が出雲市に般若寺を開き、十六善神(ぜんじん)と敬われ、これが十六島の語源となった」とも言われる(渡部氏)。
今日でも、韓国迎日湾の浦項(ポハン)では、ウップルイノリがよく採れる(金南吉、2000)。迎日湾にもこのノリの生育に適した磯があり、古来よく食べたのであろう。
ぴったりではないが、朝鮮と日本の話は繋がる様な気がする。ノリの食文化は、千数百年前、仏教伝来と相前後して古代新羅から出雲の十六島にもたらされ、
隠岐や当時の都へ伝わり、さらに全国に広まった文化なのかも知れない。
また、地元では違った話をする方もいら者居ます。
古代新羅より高僧達が奈良へ般若心経を運ぶ途中で、大しけに遭い遭難したときに、十六島の漁民達が、助け乗ってきた船を修理している間、出雲市上塩冶町にある
般若寺に般若心経の経典を預け大急ぎで、船を修理し無事完成し、大切な般若心経の経典と高僧達を下関から瀬戸内海に入り奈良まで送り届けた。
今でも一年に一度十六島に人達と上塩冶の人達は交流を続け、今は平田町の木佐本陣で続けているらしい。細川三細流の献茶式もあるらしいです。
現在日本に伝わっている仏教。この教えは今から約2500年前、お釈迦さまによって開かれました。
この仏教が日本に渡ってくるまでには、たくさんの方々の血と汗と涙の努力がありました。それはそれはひとことで語りつくせない、大変なご苦労があったのです。
インドでおこった仏教は、まず中国に渡り、中国から日本に渡ってきました。渡ってきたと申しましても、風にのって渡ってきたわけではなく、人間の手によって渡ってきたのです。
仏教経典の王さまといわれている“大般若経600巻”もインドに伝わっていた経典を、中国の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が中国に持ち帰り、そのおかげで現在日本にも伝わっているのです。
玄奘三蔵??聞いたことのあるお名前ですね。
そうです。三蔵法師のこと。“孫悟空”でおなじみの“西遊記”に登場するお坊さまのことです。
“西遊記”は玄奘三蔵が仏教を求めて、中国からインドに旅をされた実際の史実をもとにつくられた物語なのです。
大般若経をもたらした玄奘三蔵
玄奘三蔵の生きた時代
玄奘三蔵が活躍された時代は唐の時代ですが、お生まれになったのはそのひとつ前の隋という時代でした。
唐の高祖皇帝に隋が滅ぼされます。
唐という新しい国を守るため、皇帝は外国の人を国に入れない、国から外に誰も出さないという鎖国体制をとられました。
その時に玄奘三蔵は、インドに行って勉強しなければ本当の仏教をこの国に伝えることはできないという思いから、インドに行かせてほしいと二度も三度も願い出ました。
当然許可が下りるはずがありません。
鎖国状態のときに二度も三度も願いを出すのですから、とうとうブラックリストに載ってしまいました。
国の法律に従っていては、いつインドに行けるかわからないということで、遂に法律を破ってインドに行く決意をされるのです。
中国からインドへの旅
中国からインドに行くためには、タクラマカン砂漠を越えなければならない。日本がすっぽりと入ってしまうような広大な砂漠です。一度足を踏み入れたら二度と脱出することができない。隊を整えキャラバンで行っても全滅するようなところです。
砂漠で行き倒れた獣の骨や、亡くなられた方々のお骨を道しるべにしてインドを目指されます。
タクラマカン砂漠を越えれば、天山・ヒンズクシュという万年雪で閉ざされたところを超えなければなりません。そんな思いでインドにたどり着かれたのです。もちろん、そのような場所に住んでいる人々は使う言葉も違うでしょう。体力・精神力だけではなく、言語力も相当すぐれたものであったということが想像できます。
インドに着いてからの玄奘三蔵は仏教経典を求めてあちらこちらを歩きます。
そして、帰国の旅へと再出発されるのです。
結果的に17年かかって、3万キロを超えて、自分の足で歩きとおされた旅でありました。そんなことをした人は、玄奘三蔵をおいて後にも先にもないでしょう。
玄奘三蔵が持ち帰られた経典は、馬22頭分といわれています。
皇帝の願い
中国を出るときに国の法律を犯して出発していますから、帰ってくるときに皇帝に手紙を出されます。
「帰ってもよろしいでしょうか??」
皇帝は
「よう帰ってきてくだされた。早く帰ってきてください」
と言われます。
17年も経っていますから、その頃は鎖国も解いて、インドと中国との行き来もあり、玄奘三蔵のうわさも耳に入ってきていたのでしょう。
帰国後、玄奘三蔵は唐の太宗皇帝と会われます。皇帝は中国とインドを歩いて往復した玄奘三蔵の体力・気力・知力・見識に惚れ込まれて、常に自分の側近にいてほしいと頼まれます。色々なことについて相談にのってもらい、唐という国を造っていくのに智恵を貸してほしいと懇願されます。
しかし、玄奘三蔵はきっぱりと断られます。自分はそのようなことをするためにインドに行ったのではない。インドから持ち帰った膨大なお経の翻訳に命をかけたいと・・・
皇帝はその情熱に心をうたれ、お寺をひとつ玄奘三蔵にあてがって、翻訳の協力を申し出られました。その寺が大慈恩寺。今の西安にある大雁塔(だいがんとう)があるお寺です。玄奘三蔵は大慈恩寺の初代住職となられたのです。
その三年後も皇帝の父君の高祖皇帝から同じことを要請されますが、玄奘三蔵は断られます。翻訳に命をかけたいと。
皇帝からの要請を二度にわたって断り、翻訳に命をかけたいと固辞して貫き通された玄奘三蔵。宗教者としての玄奘三蔵の尊さを感じます。
大般若経の翻訳
いよいよ玄奘三蔵は大般若経の翻訳にかかられます。大般若経600巻。膨大な巻数です。この経典を翻訳するのに4年かかっておられます。480万字あり、経典中の王さまといわれる由縁です。
そして、大般若経600巻を翻訳されたあと、玄奘三蔵は100日で亡くなられるのです。
『合して六百巻を成し、称して大般若経と為す。合掌歓喜して徒衆に告げて』
とおっしゃっています。