船通山(鳥髪の峰)は、スサノオノミコトが八岐大蛇を退治し、高天原から降臨した地とされている伝説の山。出雲国風土記では「鳥上山」として登場する。
鳥上山 郡家東南35里。伯耆 與 出雲 之堺。有 塩味葛。

横田 源、出 郡家東南35里 鳥上山。北流。所謂「斐伊河上。有 年魚 少々。~出雲國風土記 ~
鳥上瀧 高さ五丈はかり、見る者銀河の晴天より落かとうたうかふ~雲陽誌 巻五 仁多郡 竹崎

江戸期になると船通山(せんつうざん)と呼ぶようになったが、風土記抄では「横田郷竹崎村と伯耆国安市布禮村の堺。スサノヲノミコト、志羅伎国(しらぎのくに)より五十猛命(いそたけるのみこと)を師いて東せし埴舟此の山に止る。故に俗に船通山という」と述べている。

雲陽軍実記 第二巻
新羅国より赤土船に召され、御子五十猛の尊と倶に当国に帰り給へば、仁多郡鳥上の嵩に神避けます。新羅の馬韓より、赤土の船、彼の山へ通りたると云ふ心にて、俗に呼んで此の山を船通山と申し伝へ候。

古事記
故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲の国の肥上の河上、名は鳥髪(とりかみ)といふ地に降りたまひき。此の時箸其の河より流れ下りき。是に須佐之男の命、人其の河上に有りと以為(おも)ほして、尋ね覓(もと)めて上り往きたまへば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置きて泣けり。爾に「汝等(なれども)は誰ぞ。」と問い賜ひき。故、其の老夫答へ言(まを)ししく、「僕は国つ神、大山上津見(おほやまつみの)神の子ぞ。僕が名は足上名椎と謂ひ、妻の名は手上名椎と謂ひ、女の名は櫛名田比売と謂ふ。」とまをしき。亦「汝が哭く由は何ぞ。」と問ひたまへば、答へ白言(まを)ししく、「我が女は、本より八稚女在りしを、是の高志(こし)の八俣の遠呂智、此の三字は音を以ゐよ。年毎に来て喫(くら)へり。今其が来べき時なり。故、泣く。」とまをしき云々

「改訂 しまねレッドデータブック」
サンインシロガネソウ
準絶滅危惧 NT ~存在をおびやかす原因~
園芸上での採取・樹林伐採などによる生息域の環境変化
カタクリ
絶滅危惧II類VU ~存在をおびやかす原因~
園芸上での採取・樹林伐採による環境変化

天然記念物のイチイは鳥取県側になるが、島根県では絶滅危惧II類 VU として登録されている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奥出雲町船通山のカタクリの花が満開です。