御座替神事・佐陀神能
御座替祭(ござがえさい)
御座替祭は本殿三社以下摂社末社の御神座の茣蓙(ござ)を敷き替える神事で当社の数ある祭事の中でも重儀とされ、一年毎の遷座祭ともいえる祭です。
この御座替の藺莚(いむしろ)は「延喜式(えんぎしき)」に「出雲莚」と見えるもので、旧佐陀荘の産物として都に送られていました。また、「枕草子」に「いやしげなるもの出雲むしろの畳」と載っているのもこれをさすと思われます。
江戸時代には佐太表(さだおもて)または秋鹿表(あいかおもて)として盛んに生産され、神社にも御座田があり、御座替の藺草(いぐさ)を栽培していました。この藺茣蓙で御神座を年毎に新しくすることで神々の霊威が常に新しく続くと考えられたと思われます。伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮や各所の神社で行われる遷座祭も御社を新しくすることも同様な意味をもっていると考えられます。
厳重な潔斎
「御座替」の名は当社においては「永正九年五月八日佐田大社禰宜宮廻佐與之助」が記した「七十余度之祭之名ヲ知事」に「八月廿四日御座之祭但島根秋鹿郡之社家集ル」「八月廿五日神法楽祭但楯縫伊宇郡東島根集神事」と有るのが初見で、江戸時代を通じて当社の触下(ふれした)、いわゆる当社の支配下にあった秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半郡三郡半の神職、巫女が参集し、奉仕する慣わしとなっていました。
現在の祭は陽暦9月に行われ、宮司は19日から当社の旧神領であった伊弉諾濱(いざなぎのはま 現:松江市鹿島町古浦)にて身を清めた後、齋館に参籠し祭りに備えます。その間の食事は一日2食で早朝、は祝部(はふりべ)による鑚火(きりび)で起こした忌火(いみび)で調理されたものを食し、外界との接触を一切断つ厳重な潔斎(けっさい)が行われます。またな直会殿(なおらいでん)、舞殿、社務所の入り口には宮司が潔斎時に海から持ち帰った汐草(しおくさ)と竹筒に入れられた海水が備え付けられ、その汐草を用い、祓をして中に入ります。
御座替と七座神事
祭当日の24日、祝部達によって準備が行われます。本殿三社以下摂社末社の新しい茣蓙、御幣、おなでと呼ぶわら藁で作った箒(ほうき)を準備します。また、神饌所ではオケヒョウと呼ばれる熟饌(じゅくせん)を作ります。これは鑚火をおこし、かまどで白米を炊き、かるくつぶした後団子状に丸めたものです。本社に伝わる木製の古式の神饌器に盛り供えます。
祭の準備を整え、午後八時より宮司以下祭員は直会殿に参集し祭が始まります。修祓の後、摂社田中神社から御座替を始めます。
この祭が始まるとともに舞殿では七座神事(しちざしんじ)が始まります。七座神事は剣舞(けんまい)、散供(さんぐう)、清目(きよめ)、御座(ござ)、勧請(かんじょう)、八乙女(やおとめ)、手草(たくさ)の七座からなり、直面(ひためん:面をつけない)の採物舞(とりものまい)で社頭での御座替と連動し、場所や御座を清め、神降ろし、神遊びの舞を舞います。
摂末社の御座替が終わると本殿三社に移り南殿、北殿、正中殿の順で御座替を行います。御座替の前に宮司以下祭員一同、本殿の前で大祓詞三巻を奏上します。その後、御扉を開き、内陣に進み、御神座を舞い清めた新しい茣蓙に取り替えます。そして古伝の神饌、御膳幣を献じ、御扉を閉じ、式を終えます。すべての御座替を終えると正中殿階段下で古例の四方拝を行った後、宮司以下祭員一同は直会殿に参集し巫女舞「真ノ神楽(しんのかぐら)」が舞われ、神酒とオケヒョウと呼ぶ御供を頂き、祭を終えます。
その後、宮司宅で直会を行います。その前に祭が滞りなく終えたことを祝し、三方に鰹節を乗せたものを祭員一同順に拝する儀式があります。これは社人が禄を受けていた時代の名残ではないかと思われます。
翌25日は午後二時より例祭を執行し、午後七時より法楽として式三番(しきさんばん)、神能(しんのう)を奉納します。これは無事御座替が終わったことを祝賀する祭です。
神能の構成はシテ、ワキ、ツレ、トモといった役立ちとなっており、また、詞と詞の間を地謡でつなぎ、囃子を笛、太鼓、大鼓、小鼓を主とするというところは能形式といわれ、他の神楽などと大きく違う点です。こういう特色を持った神事芸能は他に例がなく、近世初期にいち早く作り上げられたものが、今日にいたるまで格調を落とさず伝えられている点は特筆すべきことだといえます。
そしてこの祭に演舞される神事舞が各地の里神楽に少なからず影響を与えたとされています。この七座神事、式三番、神能の三つの神事舞を佐陀神能と称し現在、佐陀神能保存会が維持継承し、祭に奉仕しています。
佐陀神能は昭和51年5月に国の重要無形民俗文化財に指定、平成23年11月28日ユネスコ無形文化遺産リストに登録されました。
七座神事(しちざしんじ)
七座神事は御座替祭で新しく御神座に敷く茣蓙を舞い清めるために執り行うもので剣舞(けんまい)・散供(さんぐ)・御座(ござ)・清目(きよめ)・勧請(かんじょう)・手草(たくさ)・八乙女(やおとめ)の七座からなり舞にはそれぞれ場所や物を清めたり、神降しや神遊びの意味があり、剣、小幣、榊、茣蓙、大幣、中啓、鈴等の採物を持って舞います。
「七座」の語は文献の上では天文三(1534)年の「大野高宮社記(おおのたかのみやしゃき)」に「八月廿四、五日御座替御祭礼為式日、令執行七座神事」とあり、古くからこの地方での祭りとして御座替に七座神事が行われていたことが窺えます。
享保2年に黒沢長尚の記した「雲陽誌(うんようし)」には39社の祭事に「七座神事あり」と記されており、この七座神事は出雲のほぼ全域に於いて祭式とされていたようです。しかし、明治の神社制度改革によって祭式次第が改められ、今日では七座を祭式とする形は無くなってしまいました。
江戸期には七座の中に「祝詞(のりと)」があり、七座の祭式色が強かったことがうかがえます。
舞の名称 |
人数 |
舞の目的 |
採物 |
剣舞(けんまい) | 4人 | 剣を用い邪悪なものを祓い清める舞 | 前段 鈴・小幣 |
後段 剣散供(さんぐう・さんく)1人斎場を清める舞榊・中啓清目(きよめ)1人斎場を清める舞小幣・中啓御座(ござ)1人御神座に敷く茣蓙を清める舞茣蓙・中啓勧請(かんじょう)1人神降ろしの舞大幣・中啓八乙女(やおとめ)1人神なごみの舞(巫女舞)榊・鈴手草(たくさ)2人神なごみの舞榊・鈴
式三番・神能
御座替祭を終えた翌日の日中に例祭が執り行われ、その夜には法楽として舞殿で式三番、神能が演舞されます。式三番は南北朝時代の猿楽能に起源をもち、現在国内各地の芸能として伝承されています。
当社に伝わる式三番は能楽のものと比較すると、舞の形式や形態に地方色・古式がみられます。式三番は猿楽の根本として神聖視されている能で、「翁(おきな)」(シテ)、「千歳(せんざい)」(ワキ)、「三番叟(さんばそう)」(狂言)の三人の舞手が順に舞うもので、全体を通じて筋が無くめでたい詞や囃子詞をつづり合わせたものとなっています。
神能は江戸時代初頭に当社で大成されたと伝えられる能形式の神楽です。慶長13(西暦1608)年に当社の上官(じょうがん)で神楽司(かぐらつかさ)であった禰宜(ねぎ)幣主祝(へいぬしはふり)宮川兵部少輔秀行が神職裁許状を受けるため、京、吉田社に上り、その当時都で流行っていた猿楽・幸若(こうわか)等の形式によって創作したのではないか云われています。
【それ以前の永正9(1512)年の祭事記録の写しには、8月25日に「御法楽祭」の記載があることから、神能の成立がそのころまで遡る可能性があります。】
また、当社寛永16(1639)年の記録に猿楽大夫がいたことが記載されていることから、この猿楽大夫の存在が神能成立に関与したのではないかとも考えられます。
神能の演目は当社の縁起を語る「大社(おおやしろ)」をはじめ「真切女(まきりめ)」「恵比須(えびす)」「八幡(やわた)」「日本武(やまとだけ)」「磐戸(いわと)」「三韓(さんかん)」「住吉(すみよし)」「荒神(こうじん)」「厳島(いつくしま)」「武甕槌(たけみかずち)」「八重垣(やえがき)」の十二段からなります。
七座神事・式三番・神能を執り行う形式は近世初頭に当社で確立され、その形式は出雲國内の神楽はもとより、多くの里神楽に影響を与えたとされています。
昨今の伝統芸能と称すものの中にも時代とともに演出や脚色が施され、姿形をかえてゆくものが多くある中で、今もなお、当時の遺風を伝え、格調を落とさず継承されている点でも特筆すべきものであります。
佐陀神能保存会
江戸時代を通じ旧8月24日の御座替祭、翌25日の法楽として舞われる式三番・神能は当社の支配下にあった佐陀触下と呼ばれる出雲國三郡半の神職・巫女が奉仕する慣わしでした。しかし明治の神社制度改革に伴い、触下制度停止や社人の減少、神職の演舞禁止等の事情により祭の維持さえも難しくなりました。明治の間は旧社人で何とか祭を維持していましたが時代とともに継承が難しくなってきました。そこで大正8年氏子有志で古伝神事保存協会に神能部をつくり、御座替祭に奉仕するようになりました。(現在の佐陀神能保存会の前身団体。)
「佐陀神能」の名称は、大正15年に東京の青年会館で行われた第二回全国郷土舞踊民謡大会に出場し、神能を舞った際に命名したのに始まり、現在では「七座神事」「式三番」「神能」の総称として使われています。
「佐陀神能」は、昭和27年4月に文化財保護法による「選定」に加えられ、昭和36年6月に島根県無形民俗文化財指定され、昭和45年6月に文化財保護法による「記録作成の措置を講ずべき無形文化財」に選ばれ、昭和51年5月に重要無形民俗文化財に指定されました。
現在は当社御座替祭の他、近隣諸社の例祭の法楽として請われて演舞したり民俗芸能大会等での演舞、福祉施設の慰問等にも積極的に奉仕しています。